通級教室より その4

タクちゃんのはなし

 

すいません すいません

新1年生の教室での初めての授業。

ひとりの男子生徒を名指したとき、教室に微かに嘲笑が起こった。

何も答えずにいたので質問を重ねると、その子が「すいません、すいません」と俯いて頭をかいた。

教室のあちこちから「ドッと笑い」が沸き起こった。

温かくない笑い。

冷たい笑い。

嘲笑。

あまりに気分が悪くなるような笑いだったので、「笑うな!」と怒鳴った。

教室はシーンとなったが、その子・・・ タクちゃんは肩をすぼめ坊主頭をかきながら、「すいません、すいません」と繰り返していた。

それが、タクちゃんとの出会い。

それからというもの、タクちゃんのことが気になって仕方がない。

授業中は私の視界の中に居るからいいとして、休み時間の混雑する廊下などでは、いつもタクちゃんの姿を探した。

わざとぶつかり、通せんぼをして・・・ タクちゃんが「すいません、すいません」と頭をかく姿を見て喜ぶ男子たちがいたからだ。

 

体育館下での自主練習

 

そんなタクちゃんだから・・・ 、しかも、サーブですら空振りしてしまうタクちゃんだったから、彼の所属する卓球部でもバカにされていた。

2年生になると後輩たちからもバカにされるようになった。

そんなタクちゃんも3年生になり、夏の大会に臨むことになった。

これがタクちゃんのデビュー戦。

サーブでも、ピン球にラケットを当てられないタクちゃんだから、これまで対外試合には出せなかったのだが、たとえ試合らしい試合にならなくても夏の大会だけは出してやりたいと、顧問の先生が他校の先生方に頭を下げて出場を決めたそうだ。

大会出場を告げられたタクちゃんは、その日から練習後の自主練を始めた。

やがて、一人だけの早朝練習を始め、卓球部の練習のない休日にも学校にやってきて、一日中、体育館下で壁に向かってピン球を打つ・・・ 打とうとするが空振る。

それでも壁に向かい続けるタクちゃんに、「頑張れよ」と声をかける者や、練習に付き合いサーブを教える者も出てきた。

タクちゃんはというと、声をかけられても、教えてもらっても、相変わらず「すいません、すいません」と俯いて頭をかくばかり。部活が休みであることを知っていながらお弁当を作り続けてくれたお母さんにも、きっと、「すいません、すいません」と頭を下げていたのだろうと思う。

 

そして夏の大会

 

大会当日の会場では・・・ 、卓球部の仲間たちが見守る中、タクちゃんはデビュー戦に臨んだ。

これで、タクちゃんの話はお終い。

 

サーブで空振りをするのは、目と手の協応動作がとれず、手首の回旋運動がぎこちないからで、これは発達性協調運動障害(DCD)と考えられます。が口癖のようになっているのは自信のなさの表れで、極めて低学力であったことからも、知的障害も併せ持っていたのでましょう。

当時は、「ちょっと変わった子」という認識しかなく、タクちゃんをバカにする者を叱り、周りの者たちに仲間を思い遣ることを訴えるばかりでした。

今なら、もう少しマシな「タクちゃんへの支援」が出来たのにと、悔やむばかりです。

「すいません、すいません」

五人目の孫 誕生!

今月の半ば頃に、出産を控えた長女がウチに帰って来てたんですけど、23日の火曜日に無事男の子を出産!

5人目の孫ーーー!

可愛いーーーーー!

じいちゃんの立場からしたら、今、目の前に居るその子が可愛い。

我が子のときには、我が子の先々ばっかり考えて期待に胸膨らませたり、不安になったりしたもんですけど・・・ じいちゃんとしては、ただただ、今、目の前に居る孫の存在が無責任に可愛いんです。

でね、学校の先生っちゅー仕事してたから思うんですけど、こういう・・・ その子の存在を愛おしく思う人が、子たちの育ちには必要やないんかな、ってね。

期待されたり、不安がられたりする大人ばっかりに囲まれてたら息が詰まるよな。

 

通級教室より その3

感覚過敏

放課後の教室で

20数年も前のことですが、後々、不登校の子たち、発達障害の子たちへの対応に多いに役立った、ひとりの女子生徒(Kさん)の言葉があります。

学校を休みがちだったKさんのことが気掛かりだったので、ある日の放課後、彼女を教室に残してあれこれと話をしました。

チャーハンの作り方自慢やアニメの感動シーンのことなど他愛のない話ばかりでしたが、大笑いしたり、時に熱く語る彼女の姿に安心させられました。

 

人酔い

そうして、ひとしきり会話を楽しんだ後、頃合いを見計らって、「何故、学校を休むの?」と訊いてみました。

「何かが嫌だとか、しんどいだとか・・・ そういうことじゃなくって・・・」

「そういうことじゃなくって?」

「人酔い、するんです」

友だちとの人間関係は良好、クラスの雰囲気も気に入っているのだけれど、時々、止むことなく目や耳に入ってくるモノに心がざわついてしまったり、飛び交う視線が痛く感じることがあったり・・・ と、教室に居るのがとてもしんどくなってしまうということでした。

 

感覚過敏

目や耳に入る情報に飲み込まれそうになっていたKさんは、おそらく感覚過敏だったのだろうと思います。

これは、自閉スペクトラム症の特性のひとつですが、こういう知識が当時の私にあれば、もう少し適切な支援が出来たのかもしれません。

その頃はまだ、発達障害についての知識など皆無であった私でしたが、彼女の「人酔い」という言葉は、不登校の子たちや「ちょっと変わった子たち」を理解する上で、大いに役立ちました。

学校現場では、子どもたちから教わることがたくさんあります。

 

通級教室での学習内容

発達障害は、認知の仕方(感じ方・考え方)に特性(クセ)があることから、生活上、学習上、様々な困難が生じてしまうというものなので、通級教室では「コグトレ」を中心にした学習を計画しています。

コグトレとは、「Cognitive Training =認知トレーニング」のことです。

□  認知ソーシャルトレーニン

 感情のコントロールを中心にした社会面への支援学習です。

□  認知機能強化トレーニン

 視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚の強弱の特性に困っている子どもたちへの学習面への支援です。

□  認知作業トレーニン

 手指運動の不器用さや、身体運動のぎこちなさに対する支援学習です。

これらの学習を中心に、生活上の相談を受けたり、アドバイスをしたりします。

何よりも、通級教室で「ホッとひと息」つけるのがいいのではないてましょうか。

 

 

通級教室より その2

発達障害

ちょっと変わった子

自閉症スペクトラム障害ASD)、注意欠如多動性障害(ADHD)など、いわゆる発達障害起立性調節障害(OD)というものは、私が若い頃の学校現場では、「病気」として認識し対応するものではありませんでした。

「あの子には、こんなふうに対応してやらなければいけないなぁ」とか、「この子のこういうところをよく見てやらなければいけないなぁ」などと、生活指導や教科指導上、何らかの配慮をしてやるのがよかろうという生徒は各クラス数名はいたと思いますが、それは「病気」ではなく、「ちょっと変わった子」という認識です。

ですから、当時私たちがしていた配慮は、思い起こしてみると、的を得たものであったこともあるし、カタチだけの支援にしかなっていなかったというケースも多々あります。

 

障害であることが周知されたが

種々ある発達障害の特性に関する知識を持たず、それどころか発達障害の存在すらよく知らず、経験だけに頼っていたのですから当然のことです。

しかし、平成19(2007)年に特別支援教育が学校教育法に位置付けられ、その頃を境にようやく発達障害についても広く周知されるようになりました。

現在では、書店には発達障害に関する書籍コーナーが設けられていたり、インターネットで様々な知識や情報を得ることが出来ます。

ですから、発達障害ひとつひとつについての特性や対応法については、後々述べさせていただきます。

発達障害とは、認知の仕方(感じ方・考え方)に特性(クセ)があるが故に人間関係にトラブルを生じさせたり、日常生活に支障をきたしたり、学習面が困難になるというものです。

しかし、子どもたちは自分の特性について無自覚であることも多く、「僕(私)はどうして○○が出来ないんだろう」と、困り果て、苦しんでいるというケースがよく見受けられます。

そういう子どもたちを目の前にして、「どのようにしてやればいいのだろうか」、「この子に出来ないのは仕方がない」などと、私たちは頭を悩ませたり、諦めにも似た気持ちを抱いてしまうことがあります。

発達障害のこの子には、無理」

「何をさせても無駄」

「無視する(好きにさせる)しかない」

という諦めの気持ちです。

 

希望をもつこと

自分がそんなふうに見られていれば、誰だってやる気をなくしてしまいます。

自分に自信を持てないでいる子どもたちにすれば尚更です。

発達障害は、「○○が出来ない」というものではなく、「○○が苦手である」だけで、時間をかけて適切な支援をすれば、「出来ない」が「出来るようになる」ものです。

子どもたちの「育ち」に希望をもって支援することが大切です。

諦めは、子どもたちの「育ち」を抑え込んでしまいます。

 

 

 

 

 

 

通級教室より その1

私が特別支援教育や障害について深く考えるようになったきっかけは、それぞれ1年ずつでしかありませんが、退職後の特別支援学級と特別支援学校での勤務です。

そこでは、それまで見えていなかったものが見え、その度に、それまで分かっていたつもりのことが、実は、分かりきっていたわけではなかったのだと気づかされました。

そしてこの度、一般校における通級指導を担当するにあたって、改めて、特別支援教育について考えてみることにしました。

特別支援教育とは、特別な支援を必要とする子どもたちに行う教育です。支援とは、本人の出来ない(苦手な)ことを自立を促しながら一緒に行い、出来ない幅を少しでも減らし、出来る幅を少しでも増やすためのものです。

例えば、脳性麻痺により身体を自由に動かすことが出来ない子どもたちへの支援として、特別支援学校では様々な身体トレーニングを施します。

四肢(両手足)の可動域が少しでも広がるように、座った姿勢を少しでも自力で維持出来るように、仰向けに寝転んだ状態で少しでもお尻を持ち上げることが出来るようにと、日常生活において自力で出来ることを少しでも増やしておくためのトレーニングです。

支援とは、本人の出来ないことを代わりに行う介助や介護と違い、学びと育ちを促すものです。

しかし、身体の成長とともに体重が増し、そのことによって身体機能が低下していくという厳しいげんじつがあります。

そういう身体機能の低下を少しでも緩やかにするためのトレーニングでもあります。

また、将来的に介助や介護を受け続けなければならない子どもたちが、介助や介護を理解し、身体的・心理的に受け入れることが出来る(介助や介護をしてもらいやすい)ように、という狙いもあります。

特別支援教育とは、教員の特別な支援によって子どもたちを育てるものです。

特別支援学校には多くの介助員や看護師がいますが、彼、彼女たちの仕事は、子どもたちが、今、出来ないことを代行することであり、今、必要とされる医療的ケアを行うものですから、教員の行う「支援」とは異なります。

○○が出来ない(苦手な)ことで不安や苛立ちを感じ、物事に対する自信や意欲を持たないでいる子どもたちに、様々な活動を通して達成感を積み上げさせ、成長を促すという教育的観点に立った支援を行うのが教員です。

そして、この特別支援教育の考え方は、いわゆる「障害」の診断を受けた子どもたちだけでなく、全ての子どもたちに向けられたものでなければいけません。

誰にでも身体的な、或いは、精神的な特性があり、その中には、制度としての特別な支援を必要とする特性もあります。

それが、特別支援教育というものです。通級指導もそのひとつです。

先生にとっても生徒にとっても・・・

学校の生活指導は、「世の中基準」でないとあきません。

子育てやら、教育いうんは、子どもらがやがて大人になって、世の中を自力で生きていけるようにするためのもんやからね。

そのためには、せなことはさせる。したらアカンことはさせへん。

「アカンもんはアカン」いうんを、ちゃんと教えたらなあきません。

中学校を退職して4年目。

今、再任用で複数の学校をまわってるんやけど、この数年で、かなり変わったような気がする。

先生らがもの凄ォ、忙しそう。

せなアカン仕事をひたすらこなしてるって感じ。

生活指導も、ただただこなしてるって感じ。

せやからいっつも職員室に人がおらへん。

余裕がないのはアカンな。

学校の先生らの余裕を奪ったんは誰や?

余裕がないから、例えば、遅刻した者への指導があらへん。

私の通ってる複数の学校は、門が閉まってからひっきりなしにピンポンピンポンや。

各クラスに少なくとも3人はおるで。

欠席者も各クラスに4、5人はおる。

4、5人の内訳・・・ 半分はいわゆる不登校

遅刻に話を戻します。

私の感覚では、遅刻した者への指導はないんやけど、どうやら、指導してるつもりのようや。

まず、ピンポンして、学年・クラス・名前を告げる。

校舎に入ったら、まず職員室に行って遅刻カードに時間や理由を記入する。

で、職員室におる先生にサインしてもろぉて、そのカードを授業してる先生に渡す。

絶対に門から教室に直行したらアカン!

そういう指導。

それが指導。

毎日、ほぼ同じ顔触れ。

校門指導担当もおるけど、時間になったら閉めて職員室に帰ってくる。

いやいや、同じ顔触れが門を閉めた後に次から次へと来るんが分かってんねん。

そこで、叱るなりなんなりしてから学校に入れてくださーい。

「遅刻も欠席も、めちゃ多いなー」っちゅーて、言うたことあるんですけど、そのときの先生らの反応に、もうそれ以上、よぉ言わんかったわ。

遅刻って、世の中ではアカンことやん。

休みまくるんも、アカンことやん。

せやのに、「あいつの家がだらしないですからねー」とか、「あーいうやつなんですよ」とか、「小学校から続いてますからね」でお終い。

そこをなんとかしようと試行錯誤、悪戦苦闘するところに面白さがあるんやけどなー。

一番上の孫が小学校の2年生で、これからも孫らが次々と就学するんやけど、なんか嫌な感じやなー。

学校が面白ォないいうんも、遅刻やら欠席が多い要因ちゃうやろか。

先生らも、面白ォないから辞める人が多いねん。

ほいで、成り手もおらん。

私が通ってる学校も、先生の絶対数が足りてへん。

えらいこっちゃ。

勤務時間が超ブラックで、業務も多量煩雑の超ブラックっちゅーのが先生不足の原因って言われてるけど・・・

それだけで言うたら、私らがやってた頃は、超ド級ブラックやったで。

それでも、やりたい仕事を思いっきり出来てたから、楽しかった。

今、業務内容のブラックについて、「トイレ掃除まで先生の仕事だそうです」ってな感じでニュースキャスターが言うてるけど、生徒らと一緒にトイレをピカピカにするんはオモロイんやけどなー。

学校の先生らから楽しさを奪うようなお達しばっかり下してくる文科省に問題ありやで。

ホンマ、そう思う。

 

 

学校の先生の仕事はブラック

「新任の先生はどんどん辞めるし、成り手もおらへんし・・・ 学校が人手不足になってるんは、ブラックやからって言われてるみたいやけど、どう思う?」

「真っ黒やで」

「せやけどやー、俺らが生徒指導とか部活とか

ガンガンやってた頃の方がえげつなかったと思うんやけどなー」

「それはそれでブラックやったと思うけど、そのブラックも楽しかったやん」

「1年のうち、355/365はガンガンやってたもんなー」

「お休みは、盆の数日と正月の3日だけ」

「好きなことを好きなように、やりたいことをやりたいようにやってたもんなー」

「そう、そういうふうにさせてもらえるような世の中やったな」

「生徒らと思いっきり笑ぉたり、思いっきり汗流したり・・・ 生徒らを思いっきり叱ったり、させてもらえる世の中やった」

「父ちゃん、母ちゃんらも、俺らを育ててくれてるような感じやったなー」

「粗相したときには、父ちゃん、母ちゃんらに叱られもしたけど、“すんませんでした”いうて頭下げたら許してくれた」

「お陰さんで、教え子らともしょっちゅう飲みに行ける」

「ホンマ、それ・・・ しんどいときもあったけど、総括したら楽しかったし、今も、その楽しさが続いてるもんな」

「そもそもが、学校の先生の勤務形態と他の仕事のそれを同じように考えたらアカン」

「せやのに、いつの頃からか、夏休みとか、休校のときの勤務時間のことが喧しく言われるようになった」

「生徒指導のときなんか、オールナイトなんか当たり前やったのにな」

「それで残業手当てがつくんかいうたら、そんなもんあらへん。別に誰もそんなもん求めてへんかったけどな」

「部活も、休日にやっても500円ぐらいやったもんな」

「時給やのぉて、日給やでー」

「「ブラックがなんやねん!」」

「「好きでやってたんじゃい!」」

「せやけど、今の先生らの仕事見てたら、可哀想になってくるわ」

「通知簿の付け方のなんとややこしいことか」

「通知簿つけるために授業してはるもんな」

「授業って、担当する先生が自由自在に行うもんでないと、生徒もオモロないで」

「ICTを導入せなアカンいう強迫観念からやろか・・・ 無理にそういうのを使って授業する先生もおるしな」

「ほいで、教卓で身を屈めてパソコンの画面ばっかり見て授業を進めよる」

「授業の面白みいうんは、生徒らとのやりとりにあんのにな」

「そのやりとりを身につけるのに、吉本新喜劇は参考になったわー」

「ICTの弊害は、まだあるで」

「ホームページ担当や」

「あれ、いる?」

「要らん!」

この間、私と同じく再任用でお仕事してる昔馴染みとの会話です。

今、学校現場では深刻な人手不足です。

勤務時間を正すのが、ブラック脱却の喫緊の課題だと文科省は言っています。

は? ですね。

先生たちが、それぞれの個性を出しまくりながら仕事が出来るようにすることです。

「こうするべき」のお達しが多過ぎます。

現場の先生たちは、明るく元気に笑いながら仕事が出来てません。

先生たちから笑顔がなくなると、生徒たちの笑顔もなくなります。

家庭でもそうですよね。

親が笑顔だと、子も笑顔。

どうする?

本の学校

学校って、子どもたちに何を教えるところなのかということを、改めて考えなければいけません。

そもほもが、学校の先生の仕事ってブラックなのですから。