命の教育って何や?
死んだらアカン。
死なせたらアカン。
命は、かけがえのないものだから。
だから、一人で苦しみを抱え込まずに相談すること。
だから、人の心を追い込む様なイジメはアカン。
そういうことを声高に叫んでたら、命の教育が出来てると思ってる校長が多いな。
アリバイ作りにもなるもんな。
目立つ言葉やのぉて、もっと・・・ ややもすると生活に埋れそうな具体的なことを言わな、「掛け声」で終わってまう。
「命=生き死に」ちゃうねん。
「命=人」やねん。
人が人に思いを遣る・・・ そこから始めなあきません。
例えば・・・
特別支援学級の子たちへのかかわり。
一日に行われる何らかの授業、朝の会、終わりの会に、「交流」いうことで、特別支援学級の子が参加することになってる。
せやのに、特別支援学級の子が「交流学級」の終わりの会に向かったら・・・ すでに始まってたとか、もう終わってた、いうことが普通にある。
終わりの会に向かった特別支援学級の子が、「終わっていました」と教室に帰ってきたときの寂しい顔を見る度に、悲しくなる。
一日を締め括る終わりの会なのだから、全員揃ってから始めようよ。
確かに、特別支援学級の子が在籍するのは、あくまでも特別支援学級だし、特別支援学級の時程は交流学級のそれとは違う。
だから、「何か来れない事情があるのかな」と気を使ってくれているのかもしれない。
でも、特別支援学級の子も、交流学級の一員なんです。
ならば、クラスの誰かを走らせて「早くおいでよ」と誘ってくれるなり・・・ 何らかの確認をすべきではないかと思う。
そういうことに思いを遣れない交流学級の担任がいるような学校では、とても「命の教育」なんて語れないと思う。
特別支援学級の子も、交流学級の一員やねん。
カタチばっかり整えようとする学校・・・ である限り、不幸な子は後を絶たない。そす