時鐘(じしょう)

文明開化の世・・・ 近代化の号令下、文明の利器が日本に取り入れられた。

陸蒸気の開通で、それまで何泊も要した旅程が一日もあれば十分となる。

とても便利になった。

訪う先方さんのことをあれこれと考える間もなく目的地に着いてしまう。

これから出会う先方さんとのやりとりをあれこれと考えるから様々なことを予測し、覚悟もできる。

手早く物事を進めることのできる便利な世の中では、そうはいかない。

時鐘というのは、文明開化以前に、時報として寺で突いた鐘のこと。

明け六つ(午前六時)の鐘は朝飯の合図で、暮れ六つ(午後六時)の鐘は夕飯の合図。

寺で突く鐘の音で世の中が動いていた。

しかし、この時鐘はどの寺でも一斉に突かれるわけではない。

お江戸八百八町でいうと、まず上野の寛永寺あたりで鐘が突かれ、その音を確認した寺が鐘を突き・・・ てな具合に、時差ができる。

音の伝わる速さというものは、稲光の後、間の抜けたようにドン!ですからね。

ですから、ちょいと遠方の知り合い宅を訪ねるのなら、自分が耳にした時鐘で家を出てはいけません。

うっかり、飯時に訪うてしまっては無作法というものですから。

各々が「頃合い」というのを見計らわなければいけません。

それでも、先方さんにとって迷惑な訪問になってしまうことも、ままある。

そこはお互い様。

訪われる方も、そういうことは想定内。

「とんだ時分にお邪魔してしまいました」

「いえいえ、ちょうど余分がありますので、ご一緒に」と快く迎える。

大まかな時間の流れの中で生きていた人たちの「大らかさ」です。

それが、文明開化とともに日本で使われ始めた時計によって、「きちんとした」時間の流れの中で生活するようになった人たちは、「きちんと」から少しでも外れるようであれば、「だらしない」と断じるようになった。

「大らかさ」が、便利で豊かな生活の充実とともに、なくなってきた・・・ 。

昔なら「まぁまぁ」と許し合うことができた「間違い」にも目くじらを立てるようになってしまった。

かの夏目漱石の文明論。

著しい社会の進歩に、人間の心が置き去りにされてしまう・・・ は、まさに現在の世の中を予言していたように思う。