掃除の具合で、学校の姿勢が分かる

教育理念とか、教育目標とか、なんぼキレイな言葉を並べ立てとっても、学校の周りとか玄関

とかトイレが汚かったら、それは口先だけのもんやな。

掃除とか整理整頓が出来てへんいうことは、邪魔くさいことが嫌いな先生ばっかりいうこと。

そのくせ、そういう先生らはキレイな言葉が好きやねん。困ったもんや。

例えばやな、「思いやりのある子どもを育てます」いうてんのに、掃除とか整理整頓が出来てへん学校が仰山あるやん。まさに口先だけ。

思いやりいうんは、気遣いや。

ほいで、掃除と整理整頓こそ気遣いの実践やねん。

「みんなが気持ち良く過ごせるように」いう気持ち‥   気遣いの心が、邪魔くさい汚れ仕事に向かわせてくれる。

「キレイにする」いう気持ちが、見えにくいとこの汚れまで磨かせてくれる。

そういうことを子どもらに教えよう思ォたら、まず、先生が、そういう気持を持って掃除と整理整頓せなあきません。

つまり、汚い学校は、先生に気遣い

の心がない、いうこと。

先生に気遣いの心が無いから、子どもらにも気遣いの心が育たん。

で、学校は汚くなるっちゅうこと。

あっ、せや‥   学校の緑化はええんやけど、春の桜の花びら、秋の落ち葉の後始末に気ィが回らん学校も多いな。

ご近所の人らへの気遣い、全く無しや。

そんな学校では、子どもらに気遣いの心は育ちません。

気遣いの心が育たんいうことは、「共育」も成り立たんいうこと。

学校いうとこは、教員が「教育」するところであるとともに、子どもらが「共育」するとこやねん、

これから教壇に立つ先生らに言うときます。

そういう学校にしよ、思ォたら、まず掃除から始めてください。

掃除はキレイにしてなんぼのもん、っちゅうことをもう一回、言うときます。